発端は、ラピュタアニメーションフェスティバルの初年度(2000年)、審査委員長を務めてくれた世界のアニメーション界の第一人者ユーリー・ノルシュテイン氏の「ここには学校がない」という発言だった。それまで、1985年の広島アニメーションフェスティバルの初来日より数度の来日を繰り返し、日本を第二の故郷というようになった氏でも、当ラピュタのフェスティバルで日本の若者たちの作品群をみるのは初めての経験だった。そして、第一次選考後の全応募作品をみての最初の発言が「学校がない」だった。フェスティバルは第1回ながら各大学・先生・作家たちの協力もあって、その時点での若者達の卒制をはじめ、上質な作品群が集まったと第一次の日本人審査委員たちは思っていたのに、である。そしてその発言はコンペティションの回を重ねても変わることがなかった。すなわち、「私は二度、そして三たびここに学校がないと言わざるを得ない」。その繰り返しの中で私たちは‘学校’をつくる決意をした。
ではその前に、なぜ私たちはラピュタアニメーションフェスティバルを開催し続けているかを説明しなければならない。1985年、世界で5番目の国際アニメーションフェスティバルが広島で開催された。日本中のアニメーション好き・関係者は満を持しての開催に拍手をおしまず、世界のアニメーションの潮流を日本で、広島でみられることを喜んだ。それは今も変わらない。しかしひとつ欠点があった。日本で開催なのにフェスティバルは日本をみていない。日本人の作家を育てようとしていない。2年に1度の開催で20年たってもそこから作家は出てこないのである(もちろん例外はあるが)。ならばたまたま偶然ではあるが、私たちがつくったちいさな映画館ラピュタで日本の、日本人を対象にしたアニメーションのフェスティバルをつくろう、日本の作家の発掘・育成の場になるように、というのが主旨であった。その途上でのノルシュテイン氏の発言であり、6回のフェスティバルを通してそれは変わらなかった。そこで、学校設立のおもいが決意に至った。
また、学校がない、ここには一貫した教育がない、と指摘されたとき、日本の教育そのものを本質的に考えるきっかけともなった。
近代に入り、欧米の教育システム導入の際に欠落したもの、文化(狭義では映画・アニメーション教育の文化としての重要性)の補完と定着。モノつくりたち、この場合は映画やアニメーションに携わる人たちは、文化としての映画・アニメーションは何を表現するのか、何処へ向うのか。
本格的な日本のアニメーションの発展は敗戦後だった。長編のアニメーションは日本のディズニーをめざした『白蛇伝』にはじまる。現場のつくり手たちはディズニーやフライシャーあるいはソビエト(『雪の女王』『せむしの仔馬』)、フランス(『やぶにらみの暴君』)等の作品に強い影響を受け、60年安保など時代の荒波を受けながらも着実に成果をあげていった。一方で、50年代初頭より日本もテレビの時代に入る。その圧倒的な力を背景に国産初のTVアニメーション『鉄腕アトム』が手塚治虫の手によって制作される。東京オリンピックを境に構造変化していく日本というシステムの中で、時代の最先端に躍り出たTVと、雪崩のようにその方向に向かっていくアニメーション。かつて良質な長編アニメーションをつくり続けていた東映動画も、またちいさいながらも独自のプロダクションで人形アニメや自主作品をつくっていた人たちにも、その波は怒濤のように押しよせる。以降、その商業主義に押し流されるように、アニメーション制作過程におけるシステム(特に経済的、すなわち人材育成にも)は、作家個人の発想を作品化していく道を狭めてゆく。
それが現在のアニメーションをとりまく現状であり、ノルシュテイン氏の発言にも繋がっている。そこまでくると、この学校の目的は明白になってくる。商業主義により独自の発展・進歩をとげたアニメーションの偏重の是正、すなわち、作家主義による作品制作の場の確保。平たく言えば、モノをつくる人が自分の目で見、頭で考え、手でつくる、その初歩的な力を養うための“場”としての学校なのだ。
ラピュタアニメーションフェスティバル事務局長
才谷遼
〔補足〕この学校のある東京・阿佐ヶ谷の地はかつて『オバケのQ太郎』がうまれ、『風の谷のナウシカ』がつくられ、まんが界の金字塔『漫画家残酷物語』の背景となった街でもある。そこにこの学校はちいさな産声を2007年春あげる。











