アート・アニメーションのちいさな学校

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方針

「アート・アニメーション」とは?

曖昧なまま認知されてしまった感のあるアートアニメーションの言葉は、得体の知れない「ぬえ」の様なところがあり、それ故に何でもありの面白さがあり大好きなのだが、芯は共通項として必要かと思われる。
アニメーションの映像を作るには、時間とお金が必要になってくる。それでも作品づくりに向うのは、どうしても伝えたい、知ってほしい、みてほしいという心からの願いと理念が必須であろう。それを自分の個性、独自の感性で映像化し、人に伝え得た時、その映像はまぎれもなくアートアニメーションの範疇に入る筈である。

真賀里文子(アニメーション作家)

アート・アニメーションとは売れない作品のことをいう。
アート・アニメーションの作家とは5本の指をもっている人のことをいう。
1本目 絵がかける人
2本目 動きがでける人(役者)
3本目 小説(シナリオ)がかける人
4本目 撮影ができる人(カメラマン)
5本目 音楽ができる人(音づくり)
どれが欠けてもアート・アニメーションの作家にはならない。

久里洋二(アニメーション作家)

集団創造、マスメディアとして発展したアニメーション・フィルムの中でも、限りなく個人表現(つまりアート)に近付くことの可能な「手作り(クラフト)」的な原点、基本としての「技芸(クラフツメンシップ)」心で作られるべき、主として短編アニメーション。

石上三登志(評論家)

・創造的であること
・作品に内面が描かれ魂があること
・現代を生きる真実がこめられていること
以上がアニメーション中に表現される面白い作品。

保坂純子(人形作家)

・ アートとは、人間の感性から生み出された表現。
・ 見る人に感動を与える作品がアートである。
・ 「私の作品はアートである」といっている人の作品に面白いものはない。
・ アニメーション作品はアートである。

鈴木伸一(アニメーション作家)

商業や既成概念にとらわれず自由に作るアニメーション。
個人製作を目的とした作家を育てる学校。

石之博和(アニメーター)

絵柄が美術的であること。必ずしも明確でなくとも良いが短篇であること。
素材は多岐で良い。実験的でよいが、わけの解らない一人よがりは、認めない。

小林準治(アニメーター)

ここでいう「アート」とは少しばかりの手作り感や素朴さを標榜することではない。
絵画・文学・演劇・音楽などと肩を並べる表現を模索する姿勢を言う。
我が国が独自の価値観で発展させてきたアニメーションの世界感を下敷きに単なる「娯楽・商業」の枠を乗り越えた表現を目指していく。すなわち「自力で世界に自身の考えを突き付ける」。そんな作品の在り方だ。

池ケ谷肇(現代美術作家、彫刻、インスタレーション)

音楽、絵画、詩などにArt Music、 Art Picture、Art Poemといった呼び方はあまり聞かない。それらが既にArtとして 認知されているからに他ならない。しかし世の中には鑑賞に値する Artばかりが存在する訳では決してない。総合芸術と言われる「映画」のジャンルの一つである「アニメーション」も然りで、鑑賞に堪えうる作品は限られている。しかし、 Artの概念は人それぞれであり、Artというものが必ずしも、いわゆる「心地よいもの」に限られない時代に我々は生きている。しかし、人を感動させ、言い方を変えると、人としての生き方の良き示唆を与え、もっと大げさに言えば、悪くなる一方であるこの今の世に希望の灯をともすもの、それをArtと呼びたい。そういうアニメーション作りをしてほしい。

田村実(カメラマン)

先生が個人的に「アート」や「アートアニメイション」を定義することは出来ても、学校として定義するのは、自己矛盾に陥ると思います。作家や批評家が自覚して「アートアニメイション」を探求す行為をしたとき、創作活動が生まれ、作品に結実する。それを他者が評価するが、評価する側の価値観は評価者の自由で幅が広く、定義や法則で限定できない。創作する側も、新境地や未知の世界を求めて、無限に広がる表現に挑戦するわけですから、この未知の領域も定義や法則で限定できない。「アートの定義」は新境地によって絶えず書き換えられる宿命にある。

数え切れない数のアニメーション映画、劇場公開長編映画、テレビ番組、ネットコンテンツなどの映像作品が日夜作り続けられている。多種多様な切り口をもつ無数の作品を「これはアート作品である、ない」と言うように分類選別することは不可能に近い。同じように「アートアニメーションを教える学校です。」と宣言するのも難しい。何故なら「アートアニメーション」を定義するのが難しいだけでなく、「アート作品は教えて創れるものでではない」からだ。
それでいて「アート・アニメーションのちいさな学校」と云うネーミングは秀逸だと思う。ノルシュテインさんの作品のようなアニメーションを作りたいが、何処かよい学校はないか、お金が余りない若い学生が霧の深い街をさまよっていると、ぽつんと灯がともる小さな教室を見つけた。そこには「アートアニメーション」の看板が掛かっていた。学校の戸を叩いて「アートアニメーションの作り方を教えてくれるのですか?」と質問する。答えは先生と生徒が一緒に「アートアニメーションとは何かを考え、議論し、表現世界の深遠を探求する。研究所のようなところです」と答えがかえってくる。「専門技術については教えてくれないのですか?」。答え「教えます、プロフェッショナルな先生が揃っています」。

19世紀末から20世紀初頭にかけ、造形美術を中心に「ファインアート=純粋芸術」という考え方が台頭。衣装、室内装飾、家具、調度品など人間生活の衣食住に直接関わる造形美術は全て装飾美術、工芸美術、商業美術、工業デザイン・・・などに分類された。そして絵画と彫刻のみが、実用から離れ美術館や画廊に飾られ、純粋に人間の精神活動の糧になるものとして「純粋美術=ファインアート」と呼ばれた。私が入学した当時の「東京芸術大学」でも「油絵科、日本画科、彫刻科」が格上で、グラフィックデザインやインダストリアルデザインを扱う「図案科、漆芸科、金工科」は格下で校舎や教室の配置面積すべて、冷遇されていた。
絵画科は卒業制作の一部として自画像を制作し、学校が買い上げ、永久保存する伝統があるが、私の属した図案科などは、優秀な成績で卒業しても作品が買い上げになることはなかった。
以上のような「ファインアート」の流れを汲む「アート作品」の定義は、保守的で権威主義にしがみつく、一部の美術団体、画商、作家が妄信しているだけで、現代では「死語」になっている。今や軽い言葉の「アート」が氾濫している。「ネイルアート」、「フラワーアート」、「路上アート」・・・・。20世紀「アートは常に破壊と創造」の荒波に翻弄された。ダダ、表現主義、ナチスの退廃芸術撲滅運動、共産党のプロパカンダ芸術。岡本の[芸術は爆発だ!]はアートや芸術を破壊し別の価値観を探す。アニメーション映画ではカナダのNFBがアートアニメーションの聖地となり、「アヌシー」が商業主義映画を厳しく排除する時期があったが、「アヌシー」は商業映画に積極的に接近し、NFBは衰退している。

映像はメディアの膨張の渦中で変態、増殖を繰り返していて、40年前の草月の時代のような芸術映画、アート映像と云う呼び名や分類は消滅していると思う。とは言え映画芸術と云う概念が全て無くなったわけではない。商業映画として観客動員を至上命題として、巨費を投じて制作された、黒澤明「七人の侍」は大衆娯楽の頂点に立つ作品だが、私にとって至高の映画芸術である。私にとっては、ハリウッド製の商業映画として作られた長編映画のなかに、多数の芸術作品が存在する。

ラピュタの「アート・アニメーションのちいさな学校」は、可愛らしくて、いいネーミングだと思う。そこに集う学生達、経済的に貧しい学生に話しかける先生、みすぼらしい教室。そのすべてがそれぞれ多様な自分にとっての「アートアニメーションを思い描き」、アートという難解なテーマと格闘しながら、ある日新しい才能が生まれるかもしれない期待をたよりに、ゆっくり歩み、どんなにきつくても歩みをあきらめない。将来そこから生まれた一つの作品が、人々の心を打ち、先生方の中に熱烈な支持を表明した方が出たとしたら、これこそ「新しいアートアニメーション」と名づけ、学校の誇りとして公表すればいいのではないか。そのような作品が積み重ねられた時、「アート・アニメイションのちいさな学校」の考える「アートアニメーション」はこれですと公言したらどうだろう。

島村達雄(アニメーション作家・白組代表)