07年に開校した「アートアニメーションのちいさな学校」。何のバックも組織もないちいさな出版社/映画館がうまくいくの?の声の中で、今年始めての卒業制作品「豹」のグランプリ受賞(デジタル岡山コンテスト)等ようやく成果をみせ始めた。 その成果を踏まえた上でのマンガ・コース。 日本のアニメーションが今、世界で評価を得つつあるのはひとえに日本の戦後まんがの隆盛があるからだ。その重層化した戦後まんが史の上に今のアニメーション文化もあり、その発端と功績は手塚治虫という巨人にある。 今、様々な意味で分岐点にあるこの国と、まんがの有様を原点から若者たちと一緒に考えて明日のまんがづくりをやっていこうというのがこのコースの主旨である。
東京の中心・新宿から中央線で9分。中野?高円寺・荻窪・吉祥寺らの若モノたちの集まる街の丁度真ン中、ヘソのような位置にある阿佐ケ谷。
戦後マンガ界にデビューし青春を燃やした人たちがまだまだ元気で現役でいる。直接に話を聞き指導を受ける。(その他現役のマンガ家・編集者の指導あり)
●ライブラリー●マンガ家兼アートアニメーションの元祖久里洋二。 ●小林準治は「ジャンピング」(手塚治虫)の全作画を担当。 ●御存知小池さんこと鈴木伸一。トキワ荘の青春の話をナマで。 ●美術の山本ニ三は若干25歳で「未来少年コナン」の美術に。以降ジブリ作品に「もののけ姫」まで関わる。 |
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20世紀発の総合芸術”映画”がすべての源だ。幸い歩いて三十秒のところに今やデジタル主流になりつつある最今ラピュタも運営母体のひとつだ。とにかく映画をみる。たくさんみる。本も同じだ。若いときのそれらの経験は人生の宝になる。
今や世界で一番の都市となった東京。その中心地新宿までわずか9分。詩人ランボーもパリの灯に憧れたようにその国の首都には時代を超えて魅惑の輝きがある。それは何か。自問自答、悪戦苦闘、ジタバタしながら”今”という時代とカクトウするしかないのだ。それが身となり血肉となる。
ちいさな学校・前史
「四半世紀、まんがとアニメーションとともに歩いてきた」(PDF)
ちょっと売れ行きが落ちてきているとはいえ、TVや映画やアニメはまんが原作が大半だし、おカタイ筈のニュースでは重要人物が「フキダシ」でしゃべっているし、自衛官募集のポスターもまんが絵だ。前々首相はマンガファンを自認し100億以上かけてまんがの殿堂をつくるといいだしたりした。文化省傘下の文化庁はメディア芸術祭と称しまんがにも順位をつけ国家の管理下におくことに必死だ。
ちょっとまてよ。ついこの前まで(といっても1950?ユ60年代)まんがは悪書でPTAは目の敵にし、手塚治虫の作品(アポロの歌)は校庭で実際に燃やされたりした。でも子供たちは親や先生に隠れてまんがを読み青年になってもまんがを読むことをやめなかった。それは頭から自分たちを管理・型にはめていこうとする力に対する無言の反抗だ。学校や社会、国のいうことだけが人生の全てじゃない。もっとどこかに彼らが押し付ける人生と違うモノが、絶対にあるはずだ。
そのひとつの指針がまんがだった。それはいつの時代にもどこの国にもこどもたち、若者たちが持つひとつの特権だった。そのようにしてまんがは読まれ、そのうち何十人かはまんがを描き、次第に市民権を得るまで拡大していった。そうだその頃(70年代)だろう。まんがが変容しはじめたのは。いまや全出版部数の半数をしめ、売り上げの3分の一に達するようになった。マンガは巨大市場であり、巨大な情報の伝達手段になった。かつて蔑まされていたマンガや漫画家、編集者、出版社はいつか大先生となり、マンガ出版業界は一大産業となった。(いまやパソコンの台頭でその地位も危うくなっているが、ナーニ、ネット上で語られていることだってマンガの話だったりするのだ。)かつてまんがが持っていた輝き-希望-自由あるいは渇望といってもいい-が鈍ってしまった。
この新しく開くマンガ・コースは、その失われていこうとするものをとりもどす試みといっていい。
戦争が終わってすぐ、昭和22年、赤本で「新宝島」がでた。当時中学、高校生だった日本各地の少年・少女はこの一作に驚愕、興奮し、自分達も「まんが家になる!」と決心し続々と上京した。彼らは共に良心的漫画雑誌「漫画少年」の愛読者であり、投稿者だった。いわゆるトキワ荘の人たちだ。石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、鈴木伸一、水野英子、等々。彼らは手塚治虫のようなマンガがかきたいと、トキワ荘で悪戦苦闘、粉骨砕身、艱難辛苦することになる。
片方で、貸本マンガを中心に社会の暗部をみつめる「劇画」の誕生。
戦争には負けて、国土と国家は荒廃したが、そこには圧倒的な自由があった。(1945?'60年、昭和20?25)
持ち前の勤勉さと同質性を保有する日本人は一生懸命に働くことで自分達の家族や社会を建て直していく。そこへ朝鮮半島で戦争が勃発、いわゆる朝鮮特需で好景気・高度経済成長期に入る。
しかし時代が高揚しているとき、その波に乗れず影の中に飲み込まれてしまう闇の部分もまた生じた。社会の暗部。軋みですりつぶれていく人々。この底辺に眼を向ける一群の人々の中にマンガを描いてる人たちもいた。貸本まんがの人たちだ。「影」や「刑事」等の弱小出版社、さいとうたかを、白土三平、水木しげる、つげ義春、永島慎二、等多数のマンガ家がいた。
「この国のありようはこれでいいのだろうか」。
赤本(貸本)出身の長井勝一は白土三平を旗頭に貸本まんがで活躍していた作家に自由に作品をかかせる『ガロ』を創刊する(1984年昭和39)。特に「カムイ伝」はその圧倒的な作品のスケールと圧倒的な画力と白土三平の主題(もはやそれは思想ともいえた)で人々を魅了し、その唯物主義的史観は当時の若者たちに熱狂的な支持を得た。
一方、まんがになんとか市民権を、という願いの手塚治虫はTV時代の到来とともに自らの「鉄腕アトム」をアニメ化。後にTVアニメ時代の幕開けを告げる国産アニメの第一号だ。手塚のあくなき欲求は「カムイ伝」とそれを連載可能にした『ガロ』に対抗して、自身のライフワーク「火の鳥」の連載と若手作家の育成の場としての『COM』('66年昭和41)の発刊だった(虫プロ商事)。 「COM」の目指したまんがの"芸術運動"。新人マンガ家たちが商業のワクにとらわれずに自由な発想のもとにかける場所としての『ぐらこん』。荻尾望都、竹宮恵子、岡田史子、諸星大二郎、宮谷一彦、青柳裕介など、のちに一流作家になる人たち。そのCOM誌上でさかんに、自分たちの手でまんがを、同人誌をつくろう!と読者に呼び掛けた。
トキワ荘の世代のかいたまんがで育った連中がもはや中高生になっていた時期。ある者は漫画家をめざし「COM」に投稿しあるものは地方で同人誌サークルを立ちあげる。熊本の高校生だった米沢嘉博はぐらこん熊本支部をつくり上京して明治大学に入学、同人批評誌「迷宮」をつくり、マンガサークル交流の場としてのコミックマーケット開催に向かう。
やさしさの70年代。24年組ブームとコミックマーケットの拡大。