※それにともないまして、一部作品の上映時間を次の通り変更致します。
10月6日(土)7:00『青春ジャズ娘』→7:10スタート
※それにともないまして、一部作品の上映時間を次の通り変更致します。
10月10日(水)6:10『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』→6:40スタート
東宝の看板喜劇「社長シリーズ」や、『人間魚雷回天』『連合艦隊』をはじめ
数多くの映画作品を手掛けてきた松林宗恵監督。
コメディ、戦争映画、青春もの、メロドラマ
ジャンルは多岐に渡れども、
そこに光るは、豊かな、にっぽんヒューマニズム。
代表作から隠れた名作まで、松林監督作品31本一挙上映です。
松林宗恵 (まつばやし しゅうえ)
1920年島根県生まれ。生家は浄土真宗寺院。龍谷大学卒業後、日本大学芸術学部へ。映画に仏心を活かしたいと考え、在学中の42年、東宝撮影所演出助手部に入社。日大を短縮卒業し、海軍予備学生として学徒出陣。44年、海軍砲術学校を卒業、少尉に任官。翌年、終戦を迎える。46年、復員し東宝に復帰するが、同年の東宝争議に際し、渡辺邦男、斎藤寅次郎らに従って新東宝へ。52年『東京のえくぼ』で初監督。55年、『人間魚雷回天』で評価を得る。56年、東宝に復帰。以降は森繁久彌主演の「社長シリーズ」をはじめとする喜劇や戦争映画など、多岐にわたる劇映画を監督。日本の娯楽映画の成熟に貢献した。
吾が映画人生
監督 松林宗恵
映画は一編の詩である。全編を流れるリリシズムが、清らかで、豊穣であればある程、その作品の香りは高い。そういう作風が評価されて尊ばれたのが、昭和年代の映画界であった。私は、その時代に映画に魅せられて育った少年で、映画青年になった。
そして、気がついてみたら東宝撮影所の演出助手部に入っていた。昭和十七年の秋である。当時、成城にある白亜のスタヂオは、衆人が憧れた別世界であった。まさに、光り輝いていた。撮影所の表門には、二、三人の守衛がいて、タイムカード入れが並んでいた。演出助手部(助監督部)のカードの一番最後が私で、四十七番目である。助監督が四十七人いて、四十七士であった。忠臣蔵である。
一番トップが、監督になって『ゴジラ』を撮った本多猪四郎さん、二番目小田基義氏、三番目井上深氏、四番目谷口千吉氏、五番目黒沢明氏、六番目本木荘二郎氏、七番目佐伯清氏、八番目楠田清氏、九番目関川秀雄氏、十番目大岩大介氏、十一番目浅野辰磨氏、十二番目市川崑氏(以下略)と錚々たる先輩助監督陣であった。
私が最初についたのが、青柳信雄監督の『愛の世界』で、チーフが市川崑さん、セカンド内川清一郎ちゃん、サードが私で、主演が高峰秀子さんである。デコちゃんが素晴らしかった。それから十年(三年ほど海軍で戦場に)実質七年の助監督生活をして監督になった。恩師青柳信雄監督のプロデュスで『東京のえくぼ』(一九五二年)である。訳あって新東宝で監督になったが “東宝が昔の東宝になったから帰って来い”と呼ばれて東宝に還り、爾来劇場用の映画を七十本、映画づくり一すじに生きて来た。思へば、清らかな、豊饒な、にっぽんヒューマニズムを、リリシズムにして描こうとした一念の監督人生だった。
合掌