「役に立つ山中貞雄」西山洋市トークatラピュタ阿佐ケ谷

第2話 「マゲをつけた現代劇」の可能性 〜『河内山宗俊』について〜 西山洋市

【前回のあらすじ】

『丹下左膳余話・百万両の壷』の経済活劇・・壷の値段の変化(百万両〜三文〜一両〜)と、それに伴う経済原理によって展開するドラマ。同時に進行するみなし子成長の物語・・壷は父親を失った安の移行対象として安の成長を助ける。安は壷を抱えて怪物(丹下左膳)の棲む異界に入り、教育を施されたり金銭をめぐる事件(ここにも経済原理が)を引き起こして悩み、やがて自ら壷を手放すまでに精神的成長を遂げた。だが、安がもといた場所に帰還することなく物語は終わる。
(仮説)安の物語は、時代劇監督としての山中の物語である。それは若者の成長譚における通過儀礼の物語として『河内山宗俊』の広太郎、そして『人情紙風船』の新三らに繋がり、映画監督山中貞雄の青春の戦いを跡付けている。

【前回は語られなかったもうひとつの経済活劇】

 それは山中貞雄の映画演出における経済原理。山中の映画話法の「流麗さ」は昔からよく語られてきた(それは『百万両の壷』の語り口からも十二分に窺えた)が、それは山中の映画演出における「表現と効果の経済原則」によってもたらされる。
『河内山宗俊』では芝居の演出、とくにセリフの演出に対する山中の考え方(簡潔さとスピード)から、さらに「マゲをつけた現代劇」と言われた山中の映画の本質を考えてみたい。
 それは、伝統的には歌舞伎の「時代世話」(時代劇と現代劇の綯い交ぜ)という概念(運動)の延長上にあると思われるが、現代映画の作り手である山中にはさらにそのさきの「正味の現代劇」がつねに意識にあった。山中は「現代劇」を恐れていた。山中にとって「時代劇」そしてその象徴の「マゲ」は一種の移行対象であった。
 山中は「現代劇」にいたる一歩手前で「生世話」(江戸時代の写実的な現代劇)の『人情紙風船』を作ったが、それは現代の「生世話」物としての『トウキョウ・ソナタ』に繋がっている。
 山中の映画における「時代世話」の概念の先には、つまり山中の未来には、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』がある。イーストウッドには「西部劇」と「現代劇」の時代とジャンルを超えた接近と言うか、山中の「時代世話」に匹敵する構造があったからである。
 山中は「生世話」の人だったという当時の評価があるが、今見ると、山中の映画は「時代世話」だから面白いし刺激的なのだと思う。山中の「時代世話」には、はるか未来のイーストウッドの映画にまで繋がるような映画表現の可能性があったし、さらに、まだ多くの可能性を持っている。
(西山洋市 2009/06/06)

※ 当日ご来場の皆さまにお配りしたテキストです。

先週もちょっとお話したんですけれども、山中貞雄自身が監督した3本の映画と、山中貞雄が脚本を書いて黒澤明が脚本にちょっとだけ手を入れてリメイクされた『戦国群盗伝』という映画、この4本の映画、特に山中貞雄の3本の映画というのは、ご存じの方も多いと思いますけれども、山中貞雄の監督作品としては二十数本あるうち今現在3本しか残っていないという映画なんですけれども、たまたまこの残っている3本の映画を続けて見ていくと、1本1本の映画で語られている物語だけではなくて、連続した物語として読むことができる、見ることができるという、ひとつながりの映画になっているという観点ですね。1個1個の映画の内容を毎回ここに僕が出てきて解説しつつ、さらに全体を通して山中貞雄は何をしていたんだろうという話をここで改めて構築していきたい、という趣旨のもとに連続して話しています。

今日は2回目です。今日『河内山宗俊』を見て皆さんいかがでしたでしょうか。
河内山宗俊って誰なのか、皆さんご存じない方、特に若い方多いと思うんですけども、実在の人物といわれてますね。この映画のなかで、「天下の直参である」というようなこといってましたけれども、お数奇屋坊主(おすきやぼうず)といわれた、江戸城で大名の世話をする、実際の坊さんではない、茶坊主ともいわれるようにお茶を出したりしたらしいんですけど、いろんな大名と大名の間の仲を取り持ったりとか、そんなことをする役目で。将軍の直属の部下、将軍に会うことができる、直参とはそう意味なんですけれど、かなりの身分ではある。河内山宗俊もそういうお数寄屋坊主の一人で、しかし不良坊主だった。実際にもいろいろな、今日の映画に出てきたような悪事、このままではないですけど、ちょっとした騙りなどをはたらいて、詐欺ですね、捕まって死刑になった、実際にそういう人物がいたらしいんですね。それをもとにして「天保六花仙」という講談ができて、それをさらにもとにして河竹黙阿弥という有名な歌舞伎作者が歌舞伎にした、「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」という狂言ですけれども、そこに河内山宗俊と金子市之丞(かねこいちのじょう)と直侍(なおざむらい)つまり直次郎、それから三千歳(みちとせ)という花魁、丑松(うしまつ)なんていう人とか、人物としては出てくるんですが、お話としては映画とはだいぶ違います。もっと本格的な時代劇ですね。この間テレビでたまたま歌舞伎の「河内山」やっていたんでご覧になった方もいると思うんですけども、もっと本格的な時代劇です。

一方、山中貞雄の時代劇は、作られた当時は「マゲ(髷)をつけた現代劇」、マゲというのは侍のつけるチョンマゲのことですよね、「マゲをつけた現代劇」といわれていたらしいんですけど。その当時としては時代劇というのは、今と全然違っておそらく娯楽映画の主流は時代劇だったと思うんですけれども、時代劇のなかでもかなり現代劇に近いセンスをもっている、現代劇に近いドラマを描いているというふうにいわれていたようです。
実際その当時の座談会なんか読むと、当時の映画監督たちが何を話していたかというと、時代劇専門の映画監督たちは一杯いたんですけれども、時代劇と現代劇が物凄く接近していて、そのうち境がなくなるんじゃないかみたいなことを話し合っているんですね。今それを聞いてもちょっと理解できないですけれども、時代劇と現代劇の境がなくなるとはどういうことなんだと。すんなりとは理解できないんですが、ただこれ昭和十年代の話なんですね。
昭和十年代っていうと、まだ(第2次)世界大戦が始まるちょっと前で、その当時の小津安二郎の映画でいうと、『出来ごころ』(昭和8年)とか『浮草物語』(昭和9年)とか、その辺ですね。見た方はわかると思うんですが、今日の映画に出てきたような、あるいは『百万両の壺』に出てきたような、長屋が出てくるんですね。その頃の日本には東京といえども、ほぼそういう生活がそのまま残っていたんですね。長屋があって、職人さんたちが住んでいて、貧乏暮しをしていて、という世界。山中貞雄の時代劇のような世界。それはチョンマゲがない時代劇のような世界、自動車も出てくるし、銀座みたいな繁華街も出てくるんですけども、人情、風俗、ドラマ、設定としてはほぼ時代劇といってもいいような世界が描かれているんですね。そういうわけで当時時代劇と現代劇の境目は近かったんですね、現代の我々の感覚でいうよりも。

もう一つは歌舞伎、今日の「河内山」も原作は歌舞伎なんですが、ちょっと歌舞伎の話をしますと、歌舞伎というのは基本的には江戸時代のお芝居なんですけれども、黙阿弥は幕末に生まれた明治時代初期まで活躍していた作者で、彼が書いたたとえば次回やる『人情紙風船』、これも黙阿弥の原作ですが、ああいうもの、「河内山」の下町の描写みたいなものが出てきますけれども、長屋とかお店とか、つまりそういう江戸の町人のジャストナウといいますか、現代、江戸の現代を描いたもの、それを黙阿弥は得意だったんですけれども、それを世話物と言いました。
そして江戸の人たちから見た一時代前の時代、戦国時代、室町、鎌倉時代そこから前の平安王朝時代、それも歌舞伎で描かれているんですが、これを江戸の人たちは時代物と言ったんですね。戦国時代よりも前を江戸時代の人たちは時代物と言った。今我々は時代劇というのは、江戸時代も含めて時代劇ですからちょっと感覚が違うんですけれども。
それから江戸時代は武士階級が支配していましたから、徳川幕府があって、侍の世界を、あった事件をそのまま芝居に仕組むことは禁止されていたんですね、武士の世界を。ですから例えば「忠臣蔵」のもとは元禄時代の話ですけれど、今は元禄時代の話としてみんな知っていますけれども、江戸時代には元禄の話ではなく、南北朝時代の話というように、鎌倉時代から南北朝時代に実在した塩冶判官(えんやはんがん)とか高師直(こうのもろなお)という人たちに置き換えて描くというふうにしていたんですね。でないと弾圧されてしまう、幕府に怒られてしまう。
というわけで歌舞伎と単純にいっても、我々から見ると全部時代劇ですが、江戸の人たちから見るとその昔の時代物があって江戸の現代劇の世話物がある、時代と世話という二つの概念があったんですね。なおかつ江戸の人たちが凄いのはその二つを一緒くたにしてしまう、今から考えるとかなりシュールなことを平気でやっていたんですね。だんだん文化が爛熟するにしたがってだと思うんですけど。
有名な「助六」という歌舞伎がありますけれども、あれに出てくる助六というのは吉原でもてもての男なんですね、カッコよくて、恋の鞘当てなんかして、啖呵を切ったりしてとてもカッコいいんですね。この男がじつは曽我兄弟の弟の曽我五郎だったという話になっています。何のことかわからないかもしれませんが、曽我五郎というのは鎌倉時代の人なんですね、曽我兄弟というのは鎌倉時代の有名な仇討事件の主人公で実際に存在した人物なんですけど、五郎と十郎とね、その曽我五郎が助六に変装して江戸の吉原で仇を探しているという話なんですね「助六」というのは、驚くべきことにね。なおかつ面白いんですけどね。最後には俺は実は曽我五郎だと名乗って正体現すという話なんですよ。
極端な例で言うとそんなシュールなことやっていたんですけれども、そこまでいかなくてもたとえば黙阿弥の今日の「河内山」みたいな話でも、武家の話と江戸の下町の庶民の話が並行しているような構造を持つんですね。歌舞伎は庶民が見るものですから、基本的には、雲の上の上流社会である武士の社会を見たいという欲望が強かった。そういう武士の世界を幕府をはばかって昔のこととして扱う時代物と町人の今現在のドラマである世話物を一緒にして描く、「時代世話」といって、合体させるわけですね、時代物と世話物を。「助六」までいかなくても合体させる。
例えばお家騒動の話なんかがそうですね、よくあったお家騒動の話。どこかの大名のところに悪いやつがいてお家乗っ取りの話が進んでいるかと思うと、そのうち主人公などがお家を再興させるために必要な宝を探して身をやつして江戸の庶民として暮らしている、というような展開がね。時代物が世話物になる、さらにその世話物が時代物に戻っていく、そのような「時代世話」という概念があったらしいんですね、歌舞伎にはね。
時代と世話は台詞、役者の台詞回しにも反映されていて、かたくるしい武士の台詞回しと、いまどきの町人たちのやわらかい台詞回しと、シチュエーションによって使い分けたり、微妙に混ぜたりというのが役者の芸としても、台本の演出としても重要なものとして認識されていたし、観客はその辺も芝居の楽しみのひとつとして享受していたようなんですね。

でおそらく山中貞雄、明治時代生まれの、それからさっき言いましたように昭和十年代に活躍した人たち、時代劇の監督、専門の監督たち大勢いましたが、そういったことはごく当たり前の常識で知っていたと思います、歌舞伎がそういうふうに成り立っているんだと。彼らがネタにしている多くのものが歌舞伎や講談からきているものだったしね。それから映画だけではなくてたとえば「丹下左膳」みたいな小説、あれはもともと大岡越前の話なわけですけども、これも講談から来ているものらしい。つまりその頃の作り手たちは常識として歌舞伎がどういうものであったか、時代と世話、時代世話で成り立っていることなどを知っていた。それを考えると単に我々が今、山中貞雄の映画が「マゲをつけた現代劇」であると聞いたときに思い浮かべるイメージと、当時の人たちがそれを言って思い浮かべたイメージは全然違うものだと思うんですね。
さっきも言いましたように、その頃は現代劇自体が時代劇に近いものだったんで、世界がね。現代劇の感覚が今の我々が思っている以上に時代劇にもしかしたら近くて、それによって、「時代世話」というような歌舞伎の感覚やその作者たちが用いていたような手法や演出によって時代劇の世界を作ろうというようなことはある程度はすんなり思いつくことだったかもしれないと思うんですね。
実際山中貞雄たち、山中貞雄だけではなく仲間、鳴滝組という脚本家グループがあって、梶原金八というペンネームで何十本も時代劇のシナリオを書いているんですけれども、リーダー格が山中だったらしいんですが、山中貞雄たちが作った時代劇、先週見た『百万両の壺』もそうですし、今日の『河内山』もそうですが、そこに出てくる登場人物、それから彼らが使っている言葉、ギャグのセンス、そういったものというのは今我々が見ると時代劇なんですが、当時の人から見るとかなり現代劇だった、時代劇に現代劇を導入している、というふうに見えたんだと思います、かなり、今我々が見るよりも、以上に。

そういう手法でもって山中貞雄は映画を作っていたんですが、さらに言うと山中貞雄は時代劇専門の監督だったんですが、29で死んでしまいましたけれども、現代劇作れとまわりにも言われていましたし、自分でもちょっとそっちに動いていたと思うんですね。
前回にも言いましたように山中の映画には思想がないとか、中身がないと批判がよく書かれていました、残されている批評の本とか読むと。それも半ば当然で、使い古された時代劇のネタを使って娯楽映画として映画を撮っていたんで、彼はね。当時は価値の基準としては文学が上だったんじゃないかと思うんですけど、文学的な内容のものを映画に、娯楽映画に、庶民の娯楽映画に導入することは、そう簡単にはできなかっただろうと思うんです。
それをやるためには現代劇をやる必要があったということだと思うんですけど、ただ山中貞雄はその現代劇をやることを恐れていたんですね。インタヴューのようなものを読むと、「こわい」と言ってました。何がどうこわいか細かいことまで言ってないんですけれども。山中貞雄が現代劇を恐れていたというのはどういうことなんだろうと、その話を『河内山』の話に戻ってしましょう。具体的に。

さっき言ったように、河内山宗俊というのは実在の人物なんですが、そのほかに出てきた人物は、直次郎、映画では広太郎、原作では直次郎なんですね、広太郎なんて名前はついてない、直次郎、あるいは直侍と呼ばれてました。広太郎よりもっと立派なチンピラ、チンピラというより立派なやくざの兄さんなんですね。河内山の子分ではあるんですけれども、もう一人で自立していて、三千歳という花魁の恋人がいて。三千歳という花魁も原作に出てくるんですが、キャラクターとしては、ある程度すれっからしで大人の汚い世界もみんな知っているというような、大人の女でした。
全体的にそういう大人の世界という感じで『河内山宗俊』の原作は描かれているんですが、山中貞雄はそれをどういうふうに改変したかというと、今日ご覧になってわかるように、直次郎の名前を広太郎にしたんですけど、広太郎というのがそういう立派な兄さんではなくて、チンピラですよね、15、6という設定だと思うんですが、市川扇升という役者さんがやっています。で原作にはないお姉さんがいて、それが原節子なんですが、お姉さんが18ぐらいという設定なんですが、本当は逆なんですね、当時原節子が16ぐらいで市川扇升18ぐらいだったらしいですが、原節子にお姉さんを演らせてます。そのお姉さんと二人きりで暮らしている、万引きなんかしょっちゅうしているようなしょうもないチンピラになっていましたよね。しょうもないといいますか生活能力がなくて、今でいうとモラトリアムというんでしょうか、そういう少年ですよね、そういう少年に変えているんですね、山中は。いやこれは三村伸太郎がシナリオ書いていますが、おそらく山中貞雄と相談の上でそうしていると思うんですよね。
その広太郎が侍の小柄(こづか)を盗むところから話が始まってますよね。ドラマはそこから展開するんですが、あの小柄がちょっと『百万両の壺』の壺みたいな感じでしたよね。もともとは大変な宝物なんだけれども、広太郎に盗まれたことによって競りで三両で売ってくれと言って値が下がって、変な侍の二人組が出てきて競りで争うんですが、そうすると段々五両、七両と値段が上がっていって、もとの持ち主と会ったときには二十両になっている。皆さんも爆笑してましたけれども。ところがもとの持ち主はそれを三十両で買うというふうに、値段がどんどん変わっていくんですね。その辺が壺とちょっと似ているんですが、値段が変わるごとに『百万両の壺』のようにダイナミックに物語が動くという感じではないんですが、あの小柄の場合は、その値段をつける人たちのキャラクターは明確になっていく感じなんですね、その値段をつけた人の、その値段によってその人物のキャラクターが明確になっていくという作りになっていましたね。
仕舞いにはあの小柄をネタに金をゆすり取ろうと、河内山がお座敷に乗り込んでいって、あれ結局いくらもらったんでしょうね。最低三百両ですよね、お姉さん、お浪さんの身請けの代金がそうなってましたから。加東大介(市川莚司)がやった健太という人は三百両と言ってましたね。三百両というのはお浪さんを品川の遊郭に売ったお金が三百両なんですね。ところがあの親分が出てきて「なか」へ持っていけば五百や六百にはなる玉だと言ってましたね。「なか」というのは吉原のことなんですけれども、遊郭としてはトップレベルなんですよね、「なか」と呼ばれる吉原は。品川は遊郭としてはまあ二流です。そうすると倍額近い金額の違いがある。女の人を売るにしても、健太さんは三百、あの親分は五百や六百にはなると言ってました。ということはあの小柄はお屋敷で河内山の騙りによって最終的には少なくとも三百以上、五百や六百になっていたかもしれませんね。いくらあそこにあったのか明かされませんでしたけど。
というようにあの小柄の値段が変わるに連れて物語は進展していって、なおかつ値段をつける人たちのキャラクターなり、その人たちが抱えているドラマが明らかになっていくという、この構造は『百万両の壺』とかなり類似したものでした。

もう一つ、『百万両の壺』の続きで言うと、『百万両の壺』では安という少年の成長物語が描かれていたと言いましたけど、前回話したように、安というのは百万両の壺をそれと知らずにただ金魚鉢として持ち歩いているんですが、その壺の意味合いの話をしました。安は親を亡くした子供として描かれているんですけども、親から子供たちが分離するときに、ぬいぐるみなり何かものにすがるということが心理学的に明らかにされているらしいんですが、そのすがるものを移行対象と言って、あの壺が安にとっては移行対象であったという話をしました。それをめぐって安がいかに大人になったか、精神的成長を遂げたか、という話をしたんですけれども、『河内山宗俊』はその安がまたさらにちょっと大きくなって広太郎になったというふうに見れるんですね。あの安はたぶん10歳ぐらいだったと思うんですけれども、今回広太郎は16ですよね。思春期真っ只中だと思うんですけど、今度はその広太郎という男の子が、少年が、一人前の大人になるための通過儀礼の物語というふうに『河内山宗俊』を見ることができるわけですね。
これは前回もお話しましたけれども、よく世界の民話であるとか童話なんかにも描かれているように、ある一人の少年が異界に入っていってそこでいろいろ苦労することによって精神的な成長を遂げてまたこちら側のもといた世界、日常世界に戻る、そのことによって成長を遂げる、大人になるという通過儀礼の物語ですね。『河内山宗俊』の広太郎もちょうどそれに当たるわけですね。
通過儀礼の、イニシエーションとしてよくいわれるのが、一旦仮に死ぬんですね、仮に死ぬことによって異界に入っていく、それから儀式が始まるという手続きを踏むことが多いらしいんですけど、広太郎はいっぺん三千歳と一緒に死んでるんですね、あれは。川に跳び込むことによって、というふうに見れるんですね。実際三千歳は死んでしまいました。そのことによって広太郎には過酷な試練が次から次へと、もっぱらこれは金銭的な問題です、これ山中的なんですけれども、三百両、それから五百両、六百両という、身請けのお金として、それからそれを払わなければならないお姉さんが身代わりになるという、過酷な通過儀礼が待ち受けているわけですね。
それを河内山と金子市之丞という、二人の、何と言うんでしょうか、おじさんたちが手助けしている。よく書かれているものには、河内山と金子市がお浪さんという純情なもの、この世の美しいもののために命を賭けたと書かれていることが、ものの本を読むと多いんですが、確かにそれはそうなんですけれども、実はそれだけではなくて、彼らはそのことによって広太郎という一人のモラトリアムの少年を大人にしようとしているというふうに、これは明らかに読み取れるわけですね。
もう一つ、通過儀礼の物語とともに、広太郎という少年はやくざの親分を殺しにいってますね、で殺しました。これがまた一つ決定的な出来事としてあったんですけれども、これがいわゆる古典的な物語、人類普遍の成長譚に照らし合わせてみると、これが父親殺しに当たる、ちょうどね。男の子が父親を殺害する、あるいは擬似的に殺害することによって大人になっていくという。エディプスコンプレックスと、精神分析ではそんなふうにいいますけれども、ちょうどそれに当たるようなことがここで起こっているんですね。
でこれは『百万両の壺』のあの子供の親からの分離、それから今回の通過儀礼、次の『人情紙風船』ではどうなっているか、さらにその後『戦国群盗伝』ではその辺がどのように描かれているか。
『戦国群盗伝』は山中貞雄がシナリオ書いたのは『人情紙風船』の前なんです。この『河内山宗俊』の後、『人情紙風船』の前だったんですね、山中が書いたのは。そのシナリオでは、ある種控え目に書かれていた若者の成長譚の物語が黒澤明の手によって、はっきり書き換えられております。これぜひ皆さんの目で見てほしいんですけども、今回上映される4本の映画は、描かれるテーマ、物語のテーマとしてもつながっております。
そして、このような通過儀礼の物語、それから若者の成長の物語、これがちょうど山中貞雄が映画的に成長していく物語とだぶっているんですね。そのことに気付いたのは最近、昔の批評を集めた「評伝山中貞雄」という本を読んでて、うかつにも遅ればせながら気付いたんですが。何度も言いますけれども、山中貞雄はかなり批判されていたんですね、形式的であるとか、内容がないとか、そのことで山中自身も悩んでいた。そのことは加藤泰も、加藤泰監督は山中貞雄の甥っ子で映画監督ですけれど、加藤泰が書いた「映画監督山中貞雄」という本にもはっきり書かれてあります、山中が悩んでいたということが。まだ、にしても今日の映画で26ですからね、26の若者がそれは悩みますよね、ただでさえ悩むのに、映画みたいなやっかいなものを作って、なおかつスター監督としてもてはやされた一方で、批評家たちの半分ぐらいにはたたかれるという、かなりきつい状況だったと思うんですけど、その山中の映画監督としての生の物語とだぶって見えるんですね。

ここでちょっとだけ「マゲをつけた現代劇」、さっき言った「時代世話」という概念ですね、そのことに関してもうちょっとだけつけ加えると、その先に何があったかということですね。
山中は新鮮な時代劇、いや現代劇を撮ろうとしていて、はっきり言っているのは、島崎藤村の「夜明け前」をやりたいみたいなことを言っていましたね、インタヴューで。「夜明け前」ってどんな話なのか読んでいないのでわかりませんが、幕末から明治時代にかけての話ですね、歴史物というか日本の激動期の多分かなり社会派の話だと思うんですけど、そういったものやりたいと言っているんですね。
ただ、僕なんかが一番山中を見て刺激的に感じるのは、その「時代世話」の感覚、山中の映画が実現している時代劇でもあり現代劇でもあるような二重構造を持った映画、その豊かさです。その面白さなんですね、娯楽映画としての。これは作り手としてもまだまだ応用範囲があるものなんじゃないかと思うんですね。映画作りの方法論、または作品の世界観としてです。
その一つの例として端的にあげますが、最近公開されたクリント・イーストウッドの最新作、『グラン・トリノ』という映画見たら、皆さんご覧なったでしょうか、これも見てない方のために細かくは言いませんが、『河内山宗俊』そっくりの映画でした。
クリント・イーストウッドという人のことを考えると、クリント・イーストウッドはもともと西部劇の役者だったわけですよね、スターになったときは。それから自分で監督になって最初現代劇を撮ったりしてるけれども、時代劇ではなくて西部劇もたくさん撮ってます、半分ぐらいは西部劇でしょうか、クリント・イーストウッドは。という人ですよね。西部劇というのはアメリカ映画におけるまあ時代劇ですよね、簡単に、こんなに簡単に言っていいのかわかりませんけど、ほぼそう言っていいと思いますけど。西部劇を撮る人として、あるいは西部劇に出演した人としてのクリント・イーストウッドと、それから現代劇を作る人、現代社会の暗い側面を考える人としてのイーストウッドが合体する瞬間が『グラン・トリノ』に見られたんですね。
これまでのイーストウッドの映画をご覧になってもわかると思いますけど、現代劇描くときでもイーストウッド本人が出てる映画は半ば西部劇みたいなところありましたよね。これは強引に言ってるわけではなくて、これはたぶん山中貞雄における「時代世話」だといっていいと思うんですけど、西部劇と現代劇が合体しているような世界観を、クリント・イーストウッドは現代劇に持ち込んでいるわけです。自分自身の存在によって。それが物凄く端的に現れているのが『「グラン・トリノ」だと思うんですけれども、まだやっていると思うんでぜひ見ていただきたいんですが。
時代劇から現代劇に踏み出そうとしていた山中貞雄は「夜明け前」みたいな真面目なものをやりたいと若者らしく言っていたんですが、おそらくそれは山中が変わる過程での過渡的な作品で、山中貞雄の可能性としてはですね、絶対にそのうちに『グラン・トリノ』のような映画を撮ったにちがいない、と僕には思われます。時代と世話の溶け合い方に対するセンス、それからあのギャグセンスを見ているとですね。「マゲをつけた現代劇」からさらに「マゲをつけない時代劇」といった領域に、山中が踏み込んでもおかしくはなかったと思います。皆さんには、山中の映画をただの時代劇、古い時代劇というだけの先入観で見るのではなく、ちょっとだけ頭を柔軟にして、そういうところに繋がってゆく可能性を持ったものとしての山中貞雄の映画を、また山中の映画との闘いを体感してもらいたいんですが。またそういうものとして僕は山中貞雄の映画を見てる、考えております。

それからもう一つ言うと、今日の映画は主役、メインの役者さんは前進座という劇団の役者さん、河原崎長十郎、中村翫右衛門(かんえもん)、それから河内山の奥さん役の山岸しづ江さんとかですね、主な役者さんは前進座という劇団、といっても歌舞伎の劇団ですよね。もともと歌舞伎にいたらしいんですけど、本格的な歌舞伎にね。歌舞伎の世界というのは因習的といいますか、古い体質持っているというんで、そこを飛び出して、自分たちで新しい歌舞伎を作るというんで飛び出して、「前進座」という名前でね、新しい芝居を始めた人たち。
そこら辺山中貞雄と似ているところがあるんですね、古いままの時代劇ではない新しい時代劇を作ろうと、山中貞雄はその前進座に大いに共感しまして、それから彼らの芝居を大変好みまして、『河内山宗俊』で初めて一緒に仕事をしたわけですね。ちょっと今日のプリントだと音声が悪かったんで、でも十分彼らの芝居が、彼らの声、それから彼らのセリフのトーン、それによって画面がぼんやりしていても、声だけ聞いていると誰だかわかる、というぐらいまでキャラクター付けがなされてましたよね、セリフによって。また無駄のないセリフでテキパキしゃべっていく、という芝居の演出をしていました。それは山中貞雄が「映画はスピードだ」と言っていたことを、セリフの芝居でも実践していると思うんですけど、簡潔でスピードのあるセリフのやり取りです。
おそらくこれ、現代のごく一般的な演出家が演出するとですね、約30分長くなると思います。20分から30分少なくとも長くなります。それはセリフ自体が多分遅くなるということと、それからセリフに対する解釈が入るんですね、今時の演出スタイルの多くはそうなってしまうんですが、心理的な解釈が入ります。そうするとたとえば一つのセリフを言うのに、セリフプラス心理表現、顔のね、顔による心理表現が1秒入ると、一つのセリフについて1秒長くなるわけですね、1秒って短いようですけどもそれを積み重ねていくと大変な長さになってしまうんですね、実は。ということに具体的に気付いたのは実は『椿三十郎』のリメイク版を見たときなんですけども、あれオリジナルと全く同じシナリオで撮っているんですが、20分から25分長くなっているんですね。なんでだと思って、何度も見直してみました、そうすると今言ったような現象が起こっているんですね。一つのセリフを言うたびにそれに対する解釈、あるいは説明的な心理表現がはさまれる形で、芝居が長くなっていく、で合計20分から25分長い。それから『山のあなた』という映画もそうでしたね、清水宏の『按摩と女』という映画、まんまのリメイクです。これはシナリオだけでなくコンテまで全く同じなんですが、清水宏の映画が60分なんですが、草薙くんの映画は90分ありました、30分も長い。これも仔細に見ていくと、圧倒的に心理的な表現、心理描写が長いんですね、ちょっとずつなんですけども、それが積み重なって30分の違いになるという。
現代映画は全体的に長くなっていますよね。昔は今日の『河内山宗俊』で81分、『百万両の壺』で90分ぐらいなんですが、現代映画は大体1時間45分から2時間、下手すると2時間半ありますよね、ハリウッド映画なんかもそうなんですが。それはただ単にお話の内容が増えているということもあるんですが、今言ったように芝居の描写に簡潔さを欠いているということもありますね。山中貞雄のように演出できる人はもうあまりいないんですね。つい心理描写をしてしまう、でないと客にわからないんじゃないかと思ってしまうんですが、僕なんかもそうなんですけどもね。ところがそんなことないんですね。小気味よいリズムでわかりやすくセリフを言っていくだけで、客には十分伝わるということもあるわけで、そのへんは山中貞雄も無駄なセリフは抑えなければいけないと書いていますが、これはシナリオ、セリフのことだけではなくて、ショットのことについてもたぶん同じことを山中は考えていますね。無駄なショットはいらない、それから無駄な心理描写はいらない。山中貞雄はそういう無駄を省いて端的に物語を進めていくことで、テンポのあるスピーディな映画を作った人でした。
第一回目に話した山中の映画は「経済活劇」であるということには、「経済活劇」という言葉にはそういう演出面での特長も含めています。物語を経済の原理によって動かしているという点と、もうひとつ、映画演出の経済性ですね。語りと描写が、つまり芝居が無駄なく経済的であるということ。それに、そういう無駄のないセリフのやりとり自体が活劇、つまりアクションになっている。それは次の『人情紙風船』に関しても同じです。

(2009年6月6日 ラピュタ阿佐ヶ谷にて)

『河内山宗俊』
1936年(昭和11年山中貞雄27歳)/日活京都=太秦発声/81分/監督・原作:山中貞雄/脚本:三村伸太郎/撮影:町井春美/音楽:西梧郎/出演:河原崎長十郎、中村翫右衛門、市川扇升、原節子、山岸しづ江、助高屋助蔵、清川荘司、高勢実乗、鳥羽陽之助、衣笠淳子、三好文江