「役に立つ山中貞雄」西山洋市トークatラピュタ阿佐ケ谷

第3話 山中貞雄が殺したもの 〜『人情紙風船』について〜 西山洋市

【第3話あらすじ】

『河内山宗俊』では少年が大人になるための通過儀礼の物語が描かれ、そこでは象徴的な父殺し(親分殺害)が行われていた。だが、『人情紙風船』にいたっても大人になった人物たちの父親的なものとの葛藤は続いている。
 髪結いの新三と浪人海野のそれぞれのドラマ。特に海野が頼りにする父親の手紙のことを考えてみたい。
 海野のシチュエーションは『トウキョウ・ソナタ』の主人公のシチュエーションに似ているが、決定的に違ってもいる。だが、その違いに逆に、山中貞雄的な思考が顕れているのかもしれない。『トウキョウ・ソナタ』のドラマには、山中貞雄の3作品に通低する要素が埋め込まれているようだ。

『人情紙風船』で山中貞雄は新しい時代劇を作るために前進座の力を最大限に利用した。新しい映画を作ることは、新しいステージに進むことであり、そのためにはそれにふさわしい新しい「言葉」を必要とする。前進座の芝居(セリフ)が山中にそれをもたらした。日本映画がトーキー化してまだ間もない時期に実現された『人情紙風船』の芝居演出は、今考える以上に、また当時受け取られたもの以上に、実は重要なものだったのではないかと思われる。その後確立され1970年代に崩壊する「撮影所システム」とは、映画演出の観点から見れば実は撮影所に劇団機能を持たせていたと言う意味で重要だったのだと思う。『人情紙風船』の高度な芝居のアンサンブルは、その後、各映画会社の専属俳優たちによって作られた各映画会社に特有の芝居の調子やアンサンブルの先駆けだったのではないか。
 また映画のトーキー化によって考えられたセリフのあり方の一つの形として、同時代の小津映画のセリフや後の増村映画のセリフの特徴に通じる傾向を持っている。それを「ハッキリ系」と名づけたい。

 タイトルにもなっている「紙風船」とは何だったのか。今回の講演で試みている山中の生き残った3作品を連続した物語として見た場合、そのピリオドとして現れる「紙風船」は、この映画単体としてみた場合の「人情」とのからみでの解釈より以上に深い象徴的な意味をもたらしてくれる。それは『百万両の壷』の壷、『河内山宗俊』の河内山の坊主頭に繋がる、山中の無意識の願望としてみることが出来る。
 山中は「現代劇」を撮ることを「こわい」と言っていたが、それは単純な不安ではなく、新しいステージに進むための新しい映画の言葉を獲得しなければならないことへのプレッシャーだったに違いない。『人情紙風船』で殺された人物たちは山中貞雄その人であった。山中は自分を殺し、いったん死ぬことで、自分を新しい映画言語を持った新しい映画演出家として生まれ変わらせようとした。山中に限らず、人はそのようにして人生のステージを先に進む。先に進むためには、その先にある世界にふさわしい新しい言葉を身に着ける必要があるのも同じだ。山中貞雄の死は夢の中での死のようなものだ。われわれは眼を覚ますことによって新しい山中として生まれ変わることが出来る。
(西山洋市 2009/06/13)

※ 当日ご来場の皆さまにお配りしたテキストです。

今晩は西山です、先週に引き続いて今日もたくさん来ていただいてありがとうございます。今回の試みとしまして、山中貞雄が監督として二十数本映画撮っているんですけど、たった3本しか残っていないんですね、『百万両の壺』と先週の『河内山宗俊』それから今回の『人情紙風船』ですね、ほかにもたくさんあったわけなんですけども、ちょうど年代順に1935、36、37の各作品が1本ずつだけ、どういうわけだか残っているということなんですね。1本1本に関しての内容的な評価であるとか批評というものは一杯出てますね、DVDも出ておりますが、1本1本単体の、孤立した作品ということではなくて、その3本の映画が連続した物語になっているという観点から今回は話をしています。

で今日はその3回目、第3話ということですね。3本の物語、3本の映画で描かれている物語というのが、簡単にいうと若者の成長譚なんですね。『百万両の壺』は、百万両という財宝が隠されている壺をめぐる争奪戦というのが表面的な物語なんですが、よくよく見ると父親を殺された10歳ぐらいですか、あの少年の親離れの物語になっております。先週の『河内山宗俊』がその続きのように、15、6の不良少年が大人になるための通過儀礼の物語になってました。
その続きでいうと今日の『人情紙風船』は大人になった、あの『河内山宗俊』で最後に品川に向かって走り抜けて行ったあの広太郎少年がその後どうなったかというような話ですね。これは、髪結いになってました。髪結いになってるんですけども、まともに仕事しておりません、あの少年だったらまあこんな感じだろうと、遊び人になっておりましたね。勝手に賭場を開いて地元のやくざの親分と対立しているような、まあ遊び人、しょうもない大人になっておりました。
彼が地回りの親分との葛藤ないし確執に対してどのように落とし前をつけて、それに対してどのように決着をつけられてしまったかというのが、『人情紙風船』のメインの物語なんですけれども、じつは『河内山宗俊』でもあの少年とその幼馴染の少女、一緒に心中をしようとして死なせてしまった花魁の少女、それが実は親分に身請けされるはずだったんですね。という訳で少年は親分と彼女を取りあうような形に図らずもなっていて、なおかつ彼との心中によってその娘が死んでしまったがために、親分からその代わりのお金として三百両、ないし五百から六百両のお金を請求されるような羽目になってしまったんですね。その結果彼は親分を殺しに行きました。前回も話しましたけれども、これは物語の文法でいうと、広太郎という少年が大人になるための通過儀礼の物語のなかで、彼の象徴的な父親殺しが描かれていることになります。で彼は父親を殺しました、なおかつ何というんですかね、叔父さんにあたる河内山宗俊、叔父さんと言っていいと思うんですが、叔父さんに当たる河内山宗俊、それから金子市之丞という二人の大人に助けられて生き延びることができました、で、たぶん大人になっていくわけです。ですから彼は一度父親を殺しているんですが、にもかかわらず『人情紙風船』ではまたさらに、その父親に当たるもの、擬似的な父親との葛藤が引き続き描かれているんですね。ということはどういうことなんだろうということですね。山中貞雄がそこで物語的にいうと足踏みをしてしまっているように見えるんですけども。
で一方、弥太五郎源七(やたごろうげんしち)という親分のほかに、もうちょっと身近いんですが、もう一人父親的な存在がいます、もう皆さんお気づきだと思いますが、あの大家さんですね、あの長屋の大家さんなんですけども、あの大家さんがもう一人、彼の親的な存在としてあるわけですね。お話はその大家さんとのやりとりから始まって、弥太五郎源七との直接的な対決で終るというふうに構成されています。
大家さんというのはよく落語などの長屋物の台詞で出てきますけれども、「大家といえば親、店子(たなこ)といえば子も同然」といわれるように、そもそも擬似的な親子関係としてあったものらしいんですね。実際に昔の長屋というのはそういうものだったらしいんですけど、ですから髪結いの新三(しんざ)にとっては大家さん、あの抜け目のない図々しいおやじさんは、擬似的な親にあたるわけなんですけども、その親ともう一人のやくざの親分、その二人の親を相手にして、新三はいかに闘ったか、彼らと葛藤してきたかということがこの『人情紙風船』のメインのドラマになっていますね。
これの原作は河竹黙阿弥の「梅雨小袖昔八丈」(つゆこそでむかしはちじょう)という歌舞伎作品ですね。これは話自体は江戸の話ですが明治初期に書かれたものです、そこで書かれたメインの話がこれなんですね。新三が白子屋の、原作ではお熊さんといってましたけど、お熊さんという娘をさらって、そのために大家さんがあのようにお金を儲けて、新三のほうは人質の娘を取り返すことを頼まれた弥太五郎源七という親分をやりこめることによって、弥太五郎から恨みを買って殺されていくという話ですね、あらすじとしてはほぼそのままです。ただ山中貞雄の映画の方はさすがに山中貞雄らしく、人物像も台詞もやりとりなんかも、だいぶ軽くてさっぱりした感じになっています。原作の新三はかなり性格のあくどい、嫌な奴ですが、山中の新三はいい兄貴という感じになってますね。それに対して弥太五郎親分は映画ではいけ好かない感じですが、原作では昔はかなりの悪党だったのが年を重ねて人の世を知っている親切な苦労人という感じで、性格の悪い新三とのやり取りではむしろ親分が気の毒になってしまうような展開になってました。
でちょっと複雑なんですが、『人情紙風船』は、いっぺん三村伸太郎という人がシナリオ書いているんですね。クレジットも三村伸太郎、『河内山宗俊』のシナリオ書いてる人ですけども、三村伸太郎が書いたものを山中貞雄が直しているんですね。クレジットには出てこなかったと思いますけども、その三村伸太郎版の『人情紙風船』を読んでみると、新三のくだりはほぼこのとおりと言っていいと思うんですが、もう一方の主人公の海野又十郎(うんのまたじゅうろう)、あの浪人者ですね、のくだりが映画では全く書き換えられているんですね。三村伸太郎版ではあの人はこういう就職活動中の浪人ではなくて、浪人は浪人なんですけれども、奥さんもいないしもっとのんきに生きている人でした。で最終的に新三とやくざたちの対決になったときに長屋の住民が立ち上がって新三を守ろうとするんですが、それに加わって一緒に闘おうとするような、明るい、『河内山宗俊』でいえば金子市之丞のような、ちょうどあのタイプの、気がよくて腕も立つといういかにもチャンバラ時代劇らしいお侍に描かれていたんですが、それを山中貞雄が全面的に書き直したんですね。浪人して就職しようとしている、けれどもできない、それから父親のつてでね、かつて父親に世話になっているはずの人に頼みに行くんだけれども、手ひどく扱われて裏切られてしまうような惨めな人物。それから奥さんがいて、奥さんが決定的に絶望的な顔なんですよね、つねに絶望的な顔で、あの奥さんが凄いのは後姿で立っているだけであっ奥さんだとわかるあの迫力に驚くんですが、これは山中貞雄が作った世界です。
何でこんなことしたんだろうということですね。ところが山中貞雄はそれに関して言っているんですが、もとの三村伸太郎版のままでいったら『河内山』と同じものしかできなかったと本人が言っているんですね。そこが引っ掛かって書き直したと。図らずもその部分、前回もちょっと話しましたが、ご覧になった方にはピンときたと思うんですが、黒沢清さんが去年撮った『トウキョウソナタ』という映画が同じようなシチュエイションを描いているんですね、会社を首になって奥さんに内緒で就職活動するんだけどうまくいかないという、わりときつい話ですよね。黒沢さんの場合は人物を二人に分けてて、もう一人出てくるんですね、昔の友達でやっぱり同じように就職できないで奥さんや家族には黙って会社に行く振りをする男が出てきますね、ダブルできついという話にしております。
山中貞雄は、もともと原作にないもの、それから三村伸太郎のシナリオとも違うものを付け足して、何を描こうとしたんだろうととても気になるんですけども。当時いわれたのが、やっぱり前回からもずっと話してますけども、要するに「マゲをつけた現代劇」といわれていたように、チョンマゲはつけてはいるけれども、彼らが描こうとした世界は、その当時の昭和十年ぐらいの日本の世相を描こうとしたんだ、その当時のリアルな人間たちの、庶民のね、感慨とか感情、あるいは境遇を描こうとしたんだというふうにいわれております。昔の本を読んでもそういうふうにいわれております。ただ今見てそれが本当にそうなのかどうかは僕にはわかりませんけれども、それは単体で見たときには確かにそうなんだと思うんですが、今回の試みとしては連続的に『百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』とつながっていく一つの物語としてこの映画を見ようとしたときに何が見えてくるかというと、やっぱり「マゲをつけた現代劇」から山中貞雄がいかに離脱をしようとしていたのか、つまりいかに現代劇に向かおうとしていたのかというラインですね。

そこで髪結新三の物語の方を見直してみると、新三は二人の親と闘っていましたね、軽い闘いから命懸けの重い闘いまで二通りありましたけど。海野又十郎に関しては、父親はすでに亡くなっているんですが、その父親が書いた手紙、あれにすがって生きているという状態だったんですね。ご覧になったとおり、あの手紙があれば私はもとの主人のところに仕官できるであろう、もとのような立派な侍にもどれるであろう、それだけを頼りにして生きておりました。奥さんもそれだけを頼りにして内職を一生懸命やっているような状況みたいなんですが、その手紙が、お父さんが残した手紙が無力だと知ったときに、つまり奥さんが最後に、海野が家老に渡してきたと嘘を言った手紙がまだ手元にあるのを見た瞬間、物凄い絶望的な顔をしました。二つ、つまり、親に関して、海野と新三、二通りの父親との擬似的な関係が描かれていました。これをどう見るかなんですが。
前回から「マゲをつけた現代劇」、なぜそのようなものを作ろうと山中たちが考えたのかというところにもどって考えると、まず物凄く単純に言って先行世代に対するアンチだったんですね。単純なアンチではないんですけれども。これはよくあることですよね、どのような世界でも、先行する世代が作ったものがちょっと気に入らないとか抵抗を感じる、もっといえばいやだ嫌いだ、色々あるんでしょうけれども、先行する世代が作ってきた時代劇に対するアンチとして、そういういかにも時代劇っぽい、武張った(ぶばった)という言い方がされてましたけど、山中貞雄たち鳴滝組の人たちの会話を読むと。武張ったというのはマッチョということですよね、いかにも武士らしい因習に囚われた、そういう世界そういう中でだけ生きているような人たち、そういったものではなくてもっと軽い人間だっているんじゃないか、それからもっと俺たちに近い人間だっているんじゃないかというようなところがそもそもの発想の原点ですよね、「マゲをつけた現代劇」というキャッチフレーズで彼らが新しい時代劇を作ろうとしたことの。
とはいえ単純に前の世代を否定して消し去って新しいものを作ったとうかれているような人たちではなかったわけで、特に山中貞雄は十分に前の世代をリスペクトしていたんですね。よくいわれるような山中貞雄の流麗な話術というのはその前の世代の伊藤大輔が構築してきたものをさらに発展させたものだといわれています。それから日本映画だけではなくてアメリカ映画も山中貞雄はよく見て映画に取り入れたりしているんですね。
そういうことを考えると、山中貞雄がいよいよ時代劇は切り上げて、時代劇しか今まで撮ってこなかったわけなんですけれども、新しく現代劇の世界に移行しようとしたときに、「マゲをつけた現代劇」とかいっても、その延長線上で単純に現代劇を撮れるとは山中も思ってはいなかったんですね。現代劇を撮るためには、新しいステージに必要な映画言語を獲得する必要があると考えたと思われます。
それはこういう言い方をするとちょっと難しく聞こえてしまうかもしれませんが、その頃行われていた座談会を読むと、もっぱら時代劇の監督たちが集まって話しているのを読むと、彼らとしても時代劇ばかりやってるんではなくて現代劇もやってみたいというふうに言ってるんですけど、ただ時代劇をずっとやってきた、その時代劇の文体とか文法に慣れてしまっていて、あまりにも慣れてしまっているがために、現代劇を撮った場合にその型がでてしまう、それは自分たちはまだやっていないんでわからないけれども、何人かの先輩監督たちがやった映画を見てそういうふうに思ったという会話がなされていますね。つまり現代劇の文体ではない文体、単純にいうと時代劇の芝居の型とかですね。
前にちょっとお話ししましたけれども、歌舞伎に世話物と時代物があったと、そうすると世話物に、世話物というのはリアルな現代劇のことなんですが、そこへ時代物が侵入してくる、時代物の堅苦しいものの言い方とか所作とかですね、そういったものが侵入してきてしまう、それを歌舞伎は両方をうまく綯い交ぜることによって新しい世界を作り出していったわけなんですが、山中貞雄がやったこともそういったことだと思います。時代劇の文体を使いながら、現代劇的な人物像や現代的なセンスを描いていくという「時代世話」を山中はやっていた。ところが本格的に、「マゲをつけた現代劇」ではなくて、正味の現代劇をやるとなるとその文体ではもう通用しないんですね。それは山中貞雄たちが、すでに何人かの時代劇から現代劇に移行した監督たちの作品を見てそう思っている。実例が目の前にあったわけなんですね。
そこで山中貞雄は悩んでいたんですね、現代劇撮りませんかとしょっちゅう言われるわけなんですけれども、彼は映画監督としてはスターだったんで、批評家たちに言われてますよねよく、もう現代劇をやるべきだと、それが本当じゃないかみたいな言われ方してますね。何が「本当」なのかわかりません、時代劇が若干価値観的に低いものとみなされていたのかもしれないんですけれども、そうすると山中貞雄はそれに対して「こわい」というようなことを言ってるんですね。山中貞雄は寡黙な人だったんでそれ以上深いことは言っていないんですが。細かいことは言ってないんですけども。
映画を作る、お作りなったことがある方はわかると思うんですけれども、映画を作るということがそもそも新しい言語を獲得するということと同じような意味合いを持っているんですね。映画言語とか映像言語といわれてますけど、映画とは今我々がここでしゃべっている言葉とは全く別な原理でできあがっています。それはちょっと細かく説明している暇もないし、細かく説明するだけの能力もないんですけれども、つまり山中貞雄は1本1本作るたびに新たな言語を獲得してきたようなところがあると思うんですね。それが当時の映画ファンを熱狂させた。しかし、さらにそこからジャンルとして全く違う現代劇を作るとなるときに、それとはまた全く違う言語を獲得しなければならない、あるいは自分で発明していかなければならない。なおかつ彼には当時のスター監督であるというプレッシャーもありますよね、後退はもう許されないんですね、失敗も許されないというきついところにいたわけで、僕なんかのようにのんきに自主映画みたいなものを撮っているのと、ちょっときつさがだいぶ違うと思うんですけど、そういう映画の新しい領域、新しい世界に踏み込まなければいけないという覚悟と追い込まれ方が違うと思うんですが、その状態を『人情紙風船』はたぶん描いているというふうに思われます。いや、描いたというより表れてしまっていると思います。自分たちの先行世代に対する反発がありつつ、でも負けてる。蓄積されてきた映画の伝統を拠りどころにしつつ、でももうそれも役に立たないという状態ですね、それがあのやくざの親分であったり、それから父親の手紙であったりするんだと思うんですけれども。
であの一番最後に出てきた紙風船、一番最後に男の子が紙風船を持って走り出してきたときに、岡っ引きに止められて、紙風船が転がって、溝に流れて、向こうに流れていく。タイトルにもなった紙風船の意味に関しても、よくいわれるのが、タイトルに「人情」とついてますから、「人情紙の如し」といわれるような、海野又十郎さんがあのような悲惨な目にあってしまった、人の人情がこれだけ廃れているんだといおうとしているんだという説が多いんですけど。この映画単体で見るとそういう解釈が成り立つことがわからんではないんですが、どうもあの紙風船の水の上の流れ方が尋常ではないんですよね、異様なものに見えますね。そう皆さんは見えなかったですか。僕は何度見てもあれに異様な感じを持つんですけど。実際あのシーンを撮るのに相当時間がかかったということは、後日談として出演者なんかのインタヴューに載っているんですが、じゃあ普通にただ撮ればあんなふうに撮れるのか、いやその撮り方自体は書いてないんでわからないんですが、水の上を何でしょう、生き物のような生き物でないような、不思議な物体が向こうにむかって流れていくという、あのニュアンスというのはやろうとしてできるもんじゃないと思いますね。勿論アニメのようなあるいはCGのようなものを使ったとしてもできないものなんじゃないかとずっと思っているんですけど、ではあれって何なんだろうと考えたときに、これもまた今回の話にひきつけていうと、『百万両の壺』で出てきた壺、それから『河内山宗俊』に出てきた河内山宗俊の坊主頭ですね、「マゲをつけた現代劇」とかいいながらですね、『河内山宗俊』では明らかにマゲをつけてない人を主人公に選んでいるんですね、なおかつその人が後半に至ってはその短い髪の毛をさらに剃り落としてまでいます。そして命を落としていくという有様が描かれているんですが、その延長線上にあるものとして、まあるい物、あの紙風船、紙風船は『河内山宗俊』でも一瞬出てきましたけど、小さい子供が紙風船を買いに来て、それで遊びながら雪の中帰っていくという美しいシーンがありましたが、つまりその、要するにマゲではないもの、ですね、マゲのない頭、あれが流れていった先には現代劇があるんだ、だけど僕は現代劇に対してどのような新しい映画言語を獲得すべきなのか迷っている、悩んでいる、やる気は十分だけど、でも恐ろしい、というそういう絵に見えるんですね。
映画にひきつけて話しましたが、そういう新しいステージに進むときに、人生の中においてですね、どんな場合でも新しい言語を獲得しつつ進んでいくというのが人間のあり方なんですね。まず子供が、言葉がしゃべれない子供が言葉を覚えるというのがまず第一の段階ですけど、それから学校に入りますよね、そうすると学校には学校なりのルールがある、社会生活がある、そうするとそこでまた新しく言葉を覚えていかなければならない、進学していくごとにそういうことが起こります、さらに就職するとなるとまた新たに、今までの学生の言葉では通用しなかった新たな言葉を獲得していかなければならない、ということがずっと続くんですね、人間の文明社会ってものではね。それとちょうど同じだと思います。山中貞雄が23歳から29歳までの短い人生で映画においてやったことというのは、たぶんそれだと思います。今映画残っていないので見れないんですが、偶然にも残っている3本を見ると、その物語を追っていくとですね、山中貞雄が生きたその短い映画の人生というのは我々が生きている人生とそう違ったものではない、長さは違いますけどね。映画というのは、たぶんに人生の、その何かが圧縮して起こってしまう現場なんですね、映画の現場というのは。山中貞雄も映画のように圧縮された人生を生きてしまったというか、死んでしまったというか、そのような彼の人生だったと思うんですけども、その節目節目で我々がごく普通の人生でぶち当たったような、新しい言葉を獲得しながら前に進んでいくということを映画でやったんだと思います。そのようなことをですね、この3本を通して見ると、連続的に今回久しぶりに大きな画面で1週間おきに見てきたんですが、ひしひしと伝わってきました。

あと前進座の台詞に関して。今日見ていると前進座の方たちの芝居、セリフですね、セリフ回しが素晴らしいですね。録音技術がまだ若干追いついてないところがあって、体勢によっては体の向きとかによっては聞こえづらかったりもするんですが、特にあの髪結新三をやった中村翫右衛門のセリフ回しは圧倒的に素晴らしいですよね、言葉の切れであるとか、言い回しやリズムであるとか。それに、前進座全体であるバランスがとれている、アンサンブルといいますけれども、前進座全体での統一感もとれているので、世界観がびしっと、セリフだけであの一個の、『人情紙風船』の世界観が立ち上がってくるという感じが素晴らしいんですね。それはその後、日本の映画会社の撮影所システムというものが確立していって、会社専属の俳優たちで映画を作るようになった、その感じと似てますね。このラピュタで映画をよくご覧になってる方だったらわかると思うんですが、昔の70年代ぐらいまであった東宝とか松竹とか東映とか日活とか大映とか、映画を見ると会社によって芝居の感じが違うんですよね、役者さんの感じも違うし。それは崩壊しました、70年代から80年代に。今はばらばらになってます、ですからああいう感じで映画を作れるって非常にうらやましいことなんですけれども。ある芝居のトーンを、統一感を撮影所の劇団機能によって図れたという感じがあったと思います。そういったところに『人情紙風船』の、前進座の芝居はつながっていると思われます。
当時は日本映画が本格的にトーキー化してまだ4、5年くらいしか経っていない頃なんで、まだ混乱していた時期なんですね。トーキーでどういう芝居させたらいいんだろうということをね。山中貞雄はやっぱりセリフに対して敏感だったので、前進座で全面的に映画を撮るという方法を選択したんですね。また前進座の芝居自体を山中貞雄はリスペクトしていたようですし、非常に監督と役者さんの間で幸福な関係で仕事ができたんじゃないかと思います。それが最後の映画になってしまったんですけど。

というわけで山中貞雄は死んでしまいましたが、『河内山宗俊』と『人情紙風船』、この二本の映画それぞれで死んだ二人の男たちは、おそらく山中貞雄が自分自身を殺したんだと僕は思っております。これは前にもちょっと話しましたが、夢分析なんかでよくいわれていることですけれども、夢の中で自分が死ぬ、ないしは人を殺す、というのはそれは自分が生まれ変わって別の新しい自分になるため、なりたいという願望からくるんだという分析があります。それはある程度正しいと思うんですね。映画は少し夢に似ていると思うんですが、山中貞雄も無意識のうちにおそらくあの二人として自分を描いて、なおかつその二人を殺す、自ら殺すということで、新しい自分を生み出そうとしていたんだと思います。
で山中貞雄は死にましたけれども、我々はまだ目を覚ますことができると思います、目を覚まして新たな目で、山中貞雄の映画だけではなく、ほかのいろいろな映画を見たいし、新しい映画言語を獲得していきたいと思うんですね。山中貞雄がいっているのはそういうことだと思います。それ自体は怖いしきついことなんだけれども、それは誰もが生きていかなければいけないこの人生と全く同じことなんだということを、山中貞雄の映画、『人情紙風船』を見ると、ひしひしと感じます。

ということでまた次回『戦国群盗伝』、これは今日の映画とはまた違う、豪快な映画なんですが、今日の映画からつながってくる重大なテーマが描かれております。それに対して黒澤明がどのように変更を加えて山中の物語を完成させていったかという話を次回しようと思いますが、ぜひ、面白い映画なんで、単純にね、娯楽映画として、ぜひご覧になってください。どうもありがとうございました。

(2009年6月13日 ラピュタ阿佐ヶ谷にて)

『人情紙風船』
1937年(昭和12年山中貞雄28歳)/P.C.L./86分/監督:山中貞雄/脚本:三村伸太郎/撮影:三村明/美術:久保一雄/音楽:太田忠/出演:河原崎長十郎、中村鶴藏、中村翫右衛門、霧立のぼる、御橋公、坂東調右衛門、市川樂三郎、市川菊之助、岬たか子、原緋紗子、山岸しづ江