東映任侠映画の中核を担った男 山下耕作ノ世界

■ 作品解説 / /

中島貞夫(映画監督)

 初めて山下耕作さんに会ったのは、もう半世紀も前のことになる。東映に入社し、京都撮影所の助監督となり撮影所の門をくぐって二日後、まだ西も東も判らぬままに製作課長の命令で、滋賀県で撮影中のロケ地へ応援助監督として送り込まれることになった。作品は加藤泰監督の“紅顔の密使”。会社の仕立てた車に乗り、ロケ隊が泊り込んでいる宿に着いたのは、もう夜中の12時を過ぎていた。同行者は監督第一作を撮り終えたばかりの山崎大助氏と同期助監督の鳥居元宏君。着くやいなや既に仕事に従事していた先輩助監督諸氏の強烈な歓待を受けとることになった。酒、酒、酒の洗礼である。初対面の先輩達や初仕事への緊張から、注がれるままに飲んだ酒は、睡眠不足と相まって、翌日のなんと一日が長かったことか。その先輩助監督諸氏の中で音頭をとっていたのが山下さんで、以来山下さんとの長いおつき合いの場には、いつも酒の香が漂うこととなる。当時、我々定期採用組の助監督にとって、山下さんはリーダー的存在だった。酒に強く、仕事の手際も見事、そして何より、上ッ調子者の多い助監督集団の中で、常に醒めた眼の持主でもあった。

 山下さんの仇名が“将軍”であることは周知のことだが、その由来は、氏が陸軍幼年学校の出身者であることと、実在の人物山下奉文将軍とのドッキングである。山下さんには、どこか二・二六事件の青年将校達と通ずるものを感じていたのは、私一人だっただろうか。薩摩っぽの熱さと醒めた眼差し、それが当時私が感じていた山下さんだった。

 当時の東映京都撮影所、入社後まもなく発足した第二東映は、現場を混乱の渦に巻き込んだ。そして同時に訪れて来るTVの普及による映画界の斜陽化。それは明るく楽しい東映時代劇に、大きな転換をせまっていた。多忙なままにその日暮らしを強いられていた助監督にも、それははっきりと認知出来た。と同時に焦りと期待…、この状況を切り開くのは、若き才能集団である助監督達で、今こそその時なのだ。山下さんには、その先頭に立って欲しい。間もなく、チャンスが訪れる。中村錦之助さん主演の“関の彌太ッぺ”である。それを山下さんが監督する。若気のいたりとはよく言ったもの、鈴木則文氏らと語らいこの作品を、今の状況を打ち破るきっかけにしようと、勝手に全面的な協力体制を布いた。脚本直しに始まり、助監督の編成を無視しての撮影への参加。山下さんが、そんな我々の動きをどう見ていたのか、とにかくその神輿に乗ってくれたのだ。“関の彌太ッぺ”は作品的にも成功した。後を追うように“江戸犯罪帳・黒い爪”“大喧嘩”と、昭和38年から39年にかけ、私自身“くノ一忍法”で一本立ちする迄の短い期間だが、山下さんの仕事のお手伝いをさせて貰った。

 山下さんは、監督なら誰でもしているだろうクランク前の試行錯誤を、殆ど表に現さなかった。一見掴みどころのない風情ながら、ポンと現場でぶつけて来る独特の叙情性や美学には、助監督のリーダー的存在としてあがめていた山下さんと異なる、作家山下耕作の姿があった。

 山下さんの特質は対俳優の演出で顕著だった。どんな役者に対しても、その主張に逆らわず、しかしおもねず、気が付けば口うるさいスターも、いつしか山下ワールドに引きずり込まれているのだった。